物理学において系の概念は言うまでもないほどに重要なものです。
自然界から考察対象を適切に切り出したものが系であり、そのような切り出しが可能であるという事実が物理学の成功の重要な要因であると言えます。
古典力学では位置と運動量という比較的イメージしやすい変数によって状態が記述できるため、粒子一つもしくはそれらを合わせた系を自然に考えることができます。
これに対して量子論では量子状態が古典に比べて抽象的な概念であり、そもそも系の切り出しというものが可能であるか自体が非自明になっています。
「量子論の公理」ではこの問題に対する系の切り出し方法を
系の状態空間 \(S(\mathcal{H})\) が \(\mathcal{H}\simeq \mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B\) を満たすとき、部分系 \(A,B\) に分割でき、\(S(\mathcal{H}_A),S(\mathcal{H}_B)\) が部分系の密度演算子の集合となる。
と定めていますが、これも数学的すぎてなぜこのように定めているのかが分かりにくいかと思います。
そこで本記事では、部分系の公理から局所測定、縮約状態、局所性、そして量子もつれを調べていくことで、部分系の公理の恩恵を見ていきます。
補足
合成系をテンソル積で定義する旧版の記事は「なぜ合成系はテンソル積なのか?」に残しています。
部分系の同時測定
部分系の公理によると、全体系の量子状態の空間は \(S(\mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B)\) と同型であると言えるので、この空間で量子状態を考えます。
さらに部分系の量子状態の空間をそれぞれ \(S(\mathcal{H}_A),S(\mathcal{H}_B)\) であることは認めるものとします。
このとき各系のPOVMは
というそれぞれの空間上の演算子として定義できます。
各部分系の量子状態が \(\rho_A,\rho_B\) であれば、トレースによって
という形で確率が計算できます。
これらの測定は系として分離できている以上、全体系において同時進行で実行できて同時確率分布が定義できるべきでしょう。
部分系が統計的に独立であるならば
という積になります。
ここで最右辺は \(\mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B\) 上の演算子を用いた式になっていて、この同時測定が全体系でも整合的に計算できることを示唆しています。
そこで最右辺に自然に登場したPOVMを部分系の同時測定のPOVMとして定義します。
定義:部分系の同時測定
それぞれの部分系での測定を実行したときの同時測定のPOVMを全体系において
と定義する。
部分系の量子状態と局所性
全体系の任意の量子状態 \(\rho_{AB}\) に対するこの測定の同時確率分布は
と計算でき、一般には独立にはならずに相関を持ちます。
ここで、この分布において周辺確率を考えます。
簡単のために系Aについての周辺確率だけ計算すると
と計算できます。
最後の等号は
という演算子の定義を用いました。
これにより系AにおけるPOVM測定の計算式と解釈できます。
\(\rho_A\) がその時の部分系の密度演算子と思うことができて、これを縮約密度演算子と呼びます。
上記の結果から分かるように、他方の部分系BにどのようなPOVM測定 \(F_j\) を実行しても部分系Aの確率分布 \(p_A(i)\) には何も影響がないという事実は、測定を各部分系の中に閉じて独立に実行できることを示しており、テンソル積構造によって部分系を定義することの妥当性を強く示唆していると言えます。
この性質を局所性と呼びます。
定義:局所性
部分系単位で独立に行った操作や測定が他の系の測定結果に影響を及ぼさないことを局所性という。
さらに局所性を満たすような操作・測定のことは局所操作・局所測定と呼びます。
系の分割とエンタングルメント
実は部分系の同時測定のPOVMの集合は、全体系のヒルベルト空間 \(\mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B\) 上のエルミート演算子がなす空間 \(B(\mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B)\) における基底になっています。
そのため、部分系のあらゆる任意の同時測定を考えることで、全体系の量子状態は一意に特定することが可能です。
このように部分系の同時測定の組み合わせによって状態を推定することを局所トモグラフィと言います。
局所トモグラフィが可能であるということは、部分系の同時測定という測定セットが全体系において最大限に豊かであることを示していて、部分系による分割が抜け漏れのないものであることを保証しています。
ただし、部分系に分割された測定で全体系の量子状態を特定できるからと言って、量子状態自体を部分系に分割していいことにはなりません。
なぜなら、系の分割によって状態を縮約して相関を断ち切ってしまうと、確率混合だけでは状態を復元できなくなることが知られているからです。
すなわち部分系の間で相関がない独立した状態からスタートして、古典的な確率混合で相関を持たせることで準備できる状態には限界があります。
この方法で準備できる状態の空間を最小テンソル積空間と言います。
定義:最小テンソル積空間
\(S(\mathcal{H}_A),S(\mathcal{H}_B)\) からそれぞれの状態を独立に用意して、確率混合で相関させたものは
という合成系の状態になる。この方法で構成された状態全体の集合を最小テンソル積空間といい、
と書く。
逆にこの方法で準備できない状態は本質的に系全体にまたがった非局所的な量子状態であり、それをエンタングル状態や量子もつれ状態と呼びます。
定義:量子もつれ状態
\(S(\mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B)\) の中の状態であり、かつ最小テンソル積空間 \(S(\mathcal{H}_A)\otimes_{min}S(\mathcal{H}_B)\) の中にないもの、すなわち確率混合だけでは生成できない状態を量子もつれ状態という。
状態が量子もつれ状態であることを「エンタングルしている」という。
この量子もつれの概念は系を分割して局所性を定義したことによって生じたことは強調しておく必要があります。
量子もつれ/量子エンタングルメントは自動的に量子状態が備えている性質ではなく、系を部分系に分割して、その系において何が局所的かを指定することによって見出される性質になっているわけです。
系の分割か合成か
標準的な量子論では、系はテンソル積によって合成されるものとされています。
本サイトの特色としては合成を考える代わりに、全体系ありきで系の部分系への分割を考えています。
この理由は、素粒子論の標準理論が場の量子論という本質的に多体系になっているモデルで成功を収めていることや、量子情報的にエンタングルメントを考える時の局所性の考え方との相性からきています。
場の量子論は無限自由度の理論であり、そこからテンソル積の構造を見出すことで粒子の系を定義します。
また、量子情報理論ではテンソル積の構造を見つけさえすれば局所性を定義できて、エンタングルメントが定義できてしまいます。
このような例は系の合成というよりも全体系の分割の考え方に則していると言えます。
このため、本サイトでは全体系の分割による局所性とエンタングルメントの導入方法がより本質的であるという立場をとっています。
まとめ
部分系の公理によって部分系への分割が満たしてほしいいくつかの性質を紹介しました。
これらの事実があるだけでもテンソル積構造で部分系を定義する方法が十分に理にかなっていることが分かるのではないでしょうか。
さらに部分系の分割によって古典論にはなかったエンタングルメントの概念が得られました。
エンタングルメントは単に数学的に定義された新たな密度演算子というわけではなく、量子テレポーテーションのリソースとしても応用される重要な概念となっています。
量子テレポーテーションについては「基礎から理解する量子テレポーテーション」で確率論的に地に足をつけた解説をしています。