「ボルンの確率規則」にあったように、量子状態は統計的に混ぜ合わせることで新たな量子状態を作ることが可能です。
この混ぜ合わせの操作は確率混合と呼ばれており、2つの量子状態 \(\rho_1,\rho_2\) を混合することで、
という新しい量子状態を得ることができます。
素直に上式を解釈すると右辺で混ぜ合わせた結果が左辺になるように見えますが、ここで見方を逆転させて、左辺の量子状態は右辺の形で分解できることを表していると考えてみることにしましょう。
そうすると、この分解を繰り返すことで最終的には「それ以上分解できない量子状態」に到達しそうな気がしてきます。
実際にそのような分解できない状態は存在しており、純粋状態と呼ばれています。
本記事では純粋状態を調べることで物理学科には馴染み深い状態ベクトル \(|\psi\rangle\) がどのようにして現れるのかを見ていきます。
何のために状態の分解をするのか?
状態の分解が定義できるとはいえ、定義が抽象的すぎて「分解できて何か嬉しいことがあるのか?」「そもそもこの分解って操作的に意味のあるものなのか?」のような小言を言いたくなります。
そこでまずは具体例として日本の身長の分布を題材に分布の分解を見ていきましょう。
全国の日本人の中から無作為に1人を選択したとき、その人の身長の確率分布は以下のようになるとします。
グラフを観察すると、不自然に山が2つあるように見えます。
これはおそらく男女差を考慮せずに無作為に1人を選んだため、それぞれの性別のピークが現れているのでしょう。
このまま平均や分散を求めてもあまり意味のある値が得られるような気はしません。
そこで、コイン投げをして表なら男性から、裏なら女性から無作為に1人選択する試行を考えてみます。 日本人の男女比はほとんど1:1なのでこの方法でも全体としては最初に行ったサンプリング方法と同じになるはずです。
ただし今回はコインの面で条件付けることで分布を分解することができます。
グラフにすると以下のように半々の重みで2つの山に分解できることが確認できます。
これは冒頭で述べた確率混合による分解の一例であり、こう分解することでそれぞれの分布での平均や分散が計算でき、全体での計算よりも詳細で意味のある情報が得られるようになります。
古典における純粋状態と混合状態
上記の分解を繰り返した極限は、最終的には約1億2000万人を個別に分解した約1億2000万個の分布になり、そのときの各分布は各人に個別の確定的な身長を与える確率分布になります。 式で書くと
のようにクロネッカーのデルタを使って表すことができます。
この極端な例は、分解によって詳細な情報が得られるという先ほどの説明と整合しており、最も詳細な情報である個人単位の情報が得られる分布になっています。
一般に身長分布に限らず、古典確率においては分解の最終形はこのような確定的な分布になります。
そしてこのようにそれ以上分解できない最も詳細な情報を持つ分布を一般に純粋状態と呼びます。
すなわち古典確率における純粋状態とは
となる分布であり、任意の確率分布は純粋状態に常に分解できることから、逆に任意の確率分布は純粋状態を確率的に混合することで構成できることが分かります。
そこで純粋状態以外の状態を混合状態と呼びます。
量子論における純粋状態と混合状態
古典確率においては、状態の分解が極限まで可能で、その最終形は純粋状態という確定的に振る舞う確率分布になりますが、量子論だとどうでしょうか?
「量子論の公理」「ボルンの確率規則」で見たように、量子状態の空間でも同じように確率混合を扱えるため、それに基づいた状態の分解が可能です。
従って古典と同様に、量子論における純粋状態と混合状態を以下で定義します。
定義:量子論における純粋状態と混合状態
密度演算子 \(\rho\) が、異なる密度演算子 \(\rho_1,\rho_2\) と \(0<\lambda<1\) を用いて
と書けないとき、\(\rho\) を純粋状態と呼びます。
純粋状態ではない密度演算子を混合状態と呼びます。
この定義は密度演算子で書かれていますが、密度演算子は任意の測定に対する確率分布のソースとしての役割があるため、密度演算子が凸結合で分解できることは任意の測定に対して確率分布が同一の方法で分解できることを意味しています。
式で書くと、特定の値 \(0<\lambda<1\) を使うことで任意の測定確率が
と分解ができるかどうかで純粋状態かどうかを定めることと同値になります。
量子純粋状態は確定的ではない
以上のように量子論においても古典と同様に、状態の分解の可能性によって純粋か混合かを定めることができます。
しかし古典的な純粋状態が最も詳細な情報を持った確定的に振る舞う確率分布だったのに対して、量子純粋状態はそのような性質を持ちません。
実際、よく知られた不確定性原理によって、位置と運動量は一つの状態において同時に確定的な分布を持てないことが知られており、この定理は純粋状態であっても必ず成立しています。
この例に限らず、量子論においてはどれだけ詳細な情報を持った純粋状態であろうとも、測定する物理量を適当に選べば必ず非ゼロの分散を持った分布を取り出すことができてしまいます。
ここまでの流れで、純粋状態を定義して特別扱いするメリットはないのだろうか?という疑問が生じますが、実は量子論においても純粋状態を考えたくなるメリットは存在します。
最も重要な点は、後述のように量子状態を演算子ではなくベクトルで表現できるようになるため、あらゆるベクトル的な計算方法が利用できるようになる点です。
そのため、ほとんどすべての量子力学の入門書では状態ベクトルを基本的な量子状態の表現として採用して様々な計算を行っています。
ベクトル表示によって分かりやすさを得たことの代償として、概念的な混乱が絶えず起きていることは無視できません。
ベクトル空間には基底という大変便利な代表元のセットが存在するため、概念的にもこれらを特別視して物理的解釈をしてしまいたくなる衝動に勝てないことが多々あります。
量子論は基本的に確率論+時間発展の言葉で定式化されるため、その数学的な内部実装であるベクトルを解釈しようとすると神秘的で不可思議なイメージを抱いてしまうリスクがあります。
伝統的な教科書を読む際にはそのことに注意する必要があります。
純粋状態のベクトル表示
よく知られているように、量子純粋状態の密度演算子は一次元の射影演算子になっています。
これは純粋状態の定義から一瞬で分かるわけではなく、密度演算子のスペクトル分解を考えると見えてきます。
密度演算子は正の演算子なので、互いに直交する射影演算子 \(P_i\) を用いて
と書けます。
もし \(p_i\) が2つ以上正なら、\(\rho\) は複数の射影演算子 \(P_i\) の確率混合として分解できてしまいます。
したがって純粋状態であるためには、正の固有値が1つだけで、その値が1でなければなりません。つまり純粋状態は一次元の射影演算子になります。
ここで適当な基底ベクトルをとって、密度演算子を行列で表示すると
のように列ベクトルと行ベクトルの積で分解でき、さらにこの二つのベクトルがエルミート共役の関係にあることが分かります。
なぜなら、射影演算子の固有ベクトルを規格化して上記のように積をとると元の射影演算子と全く同じ振る舞いをすることが示せるからです。
これを踏まえて、最右辺の列ベクトルをケットベクトル、行ベクトルをブラベクトルと呼び、
と表記します。
このベクトルの表示は位相因子 \(e^{i\theta}\) だけ任意性がありますが、位相を一つ固定すれば密度演算子の情報を一つのベクトルで復元できることが分かります。
さらに測定確率の計算式は
と変形できますし、
孤立系のユニタリー時間発展の演算子を用いて
を定義すると、密度演算子の時間発展は
と書けるため、ケットベクトルだけがあれば孤立系の量子論の純粋状態の計算がすべて実行できます。
波動関数とは何か?
「波動関数とは結局何か?(仮)」で解説するように、波動関数とはケットベクトルの一つの具体例です。
位置と運動量を基本的な測定量としたときの量子論を使ったモデルが量子力学ですが、そのモデルにおいて位置演算子をただの座標の掛け算になるように設定することがあります。
この設定によって具体的なヒルベルト空間が定まりますが、その時の具体的なケットベクトルのことを波動関数と呼んでいます。
このように、量子状態とは何で、純粋状態とはどういう定義かを理解していれば、
「波動関数とは、密度演算子の代わりに使える便利な確率計算用のベクトル」
に過ぎないということが分かります。