量子論の公理と言っても文献によって異なることが多々あります。
そもそもどこからどこまでを一般論とするのか?もその文献の扱いたいテーマによって変わったりします。
射影仮説を公理とするかどうか、状態ベクトルか密度演算子のどちらからスタートするかなど、好みが分かれるポイントがいくつかあります。
もちろん公理から導かれる理論は同一なのでユーザーはどれを選んでもいいですが、やはり量子論の基礎を学ぶからにはこだわりの公理を見つけたいですよね。
そこで本記事では、数ある定式化を踏まえて厳選したこだわりの公理をご紹介します。
もちろん導かれる内容は同じになっています。(不備があれば連絡ください。)
補足
量子論と量子力学という言葉はよく混同して用いられていますが、本来は使い分けた方がいい用語です。おそらく最も認められているのは、
量子論 = 量子確率論 + 時間発展 量子力学 = 量子論 + 位置と運動量の力学のように前者を一般論とし、後者を質点粒子の具体的なモデルとする使い分け方だと思われます。
「前期量子論」のように、特定の現象論に量子論という語を割り当てることもありますが、
そういう例外を除いて基本的には量子論といった時には一般論を指します。
本記事では、量子確率論+時間発展の一般論としての量子論の公理について解説していきます。
用語の準備
量子論の公理を定める前に、登場する概念の定義をしていきます。
まずは量子論の中核をなす量子状態/測定という概念を定めます。
定義:測定
再現可能な手続きによってデータが得られた場合、その行為を測定と言い、データを測定値という。
定義:量子状態
再現可能な手続きによって実験的に準備された系が持つ、測定の応答の可能性を定める統計構造のことを量子状態と言う。
量子論が活躍するような類の実験では、測定値は確率的にばらついたデータになります。
確率論を科学に適用するとき、その概念的意味はさまざまなものがありますが、量子論では測定値の頻度分布を予言する目的で確率論が適用されます。
そのため、量子論の公理は測定確率を予言するための計算ルールを定めるように定式化されます。
確率論を適用するとき、定められた「試行」に対してその確率が定義されるべきです。
故に量子論で確率が出てきたら、必ず「何の試行に対する確率か?」を明確にする必要があります。
上記の「測定」という用語は、量子論において何の「試行」に対して確率を計算するのかを明確にするための宣言であると考えても良いでしょう。
実際、量子論を用いる科学者は、仮想的に「もし測定していたらどうなるか?」を論じることがあり、
それは測定が宣言的に使われることの一例と言えます。
量子論は実際に測定をしたかどうかに関わらず、「測定しました!」と宣言した時の確率を予言します。
そして実際に測定した場合にその予言と整合する、という一般的な数理モデルとしての運用が可能です。
補足
測定あるいは観測という用語は歴史的にかなりの混乱を生み出しています。
「測定によって、人間の意識が観測することで波束が瞬間的に収縮する」といった概念的に混乱した説明がなされることも未だにあります。しかしそのような問題は少なくとも頻度を予言する確率論として整備された量子論のテリトリーにはありません。
何を持って測定したというのか?という問にも量子論はある程度答えられます。実際に、量子測定理論によって測定者も量子系として取り扱うことで、測定において何が起きているか?を原理的には知ることができます。
個人的には最初の宣言的に用いる「測定」と量子測定理論の測定を区別して、後者を量子測定という量子的な現象だと思うのがいいと思っています。
量子論の公理
上述の用語を用いて、量子論の公理を以下で定めることとします。
量子論の公理
- 系に対してヒルベルト空間 \(\mathcal{H}\) が存在し、量子状態の空間は\(\mathcal{H}\)上の密度演算子全体の凸集合 \(S(\mathcal{H})\) と一致する。 さらに凸結合は量子状態の確率混合と一致する。
- 測定値の頻度確率は、量子状態と測定のペアに対して定まり、密度演算子の集合\(S(\mathcal{H})\)から確率分布の集合へのアフィン写像によって計算できる。
- 系の状態空間\(S(\mathcal{H})\)が\(\mathcal{H}\simeq \mathcal{H}_A\otimes \mathcal{H}_B\)を満たすとき、部分系\(A,B\)に分割でき、\(S(\mathcal{H}_A),S(\mathcal{H}_B)\)が部分系の密度演算子の集合となる。
- 孤立系の時間発展はユニタリー過程で記述できる。
少し数学の言葉を多用したので、用語解説をします。
まずヒルベルト空間とは、極限操作ができる複素内積空間のことを指します。
そして密度演算子は
を満たすヒルベルト空間上の線形写像のことを言います。
また、凸集合も数学の概念であり、凹みがない形状をした空間(構造を持った集合)を意味します。
正確には、二つの元の内分点が必ず集合の中に含まれるような構造として定義されます。
式で表すと、集合 \(S\) が凸集合である条件は、
が成立することとして定義されます。この内分点の計算式を凸結合と呼びます。
公理1.の意味
ここでは、確率混合が凸結合と一致するという言葉の意味を説明します。
上で述べたように、量子状態は実験的に準備されるものとして定義されます。
量子状態を狙った特定の状態として準備したい場合、精密な制御が必要です。
そういった精密な実験以外のほとんどの場合において、状態は制御外の自由度や環境ノイズによる確率的ばらつきを含んで準備されます。
最も単純な例として、確率 \(p,1-p\) でそれぞれ\(0,1\)の値をとる確率変数によってノイズの影響を受ける状態準備を考えます。
この確率変数が \(0,1\) の時に状態はそれぞれ \(\rho_0,\rho_1\)が準備されるとします。
この場合、全体としては
が準備される状態になっています。これを状態の確率混合と言います。
公理1.の
さらに凸結合は量子状態の確率混合と一致する。
はこの確率混合が密度演算子の凸結合として
と書けることを保証しています。
これは「確率的に用意された状態はその確率で平均化される」ということを式で表現したものであると捉えることができます。
すると、公理1.は量子状態の空間が持つ確率的な構造が密度演算子の空間と完全に一致するという要請であると理解できます。
従ってこの公理1.を受け入れれば、つかみどころが無さそうな量子状態という概念を密度演算子という数学的に定義された概念と同一視できるわけです。
操作論的な仮定から密度演算子を導出することは難しい問題ですが、密度演算子が古典確率の自然な拡張の一つであることは「なぜ密度演算子が出てくるのか?」で解説しています。
公理2.の意味
公理2.はボルンの確率規則に相当するもので、確率の計算方法を定めています。
公理1.の解説から予想されるように、凸集合というのは統計的な状態の空間が持つ一般的な構造になっています。
最も親しみやすい例として、古典論における統計的な状態の集合もこの凸集合になっています。
古典論における状態とは、全確率が1になる確率を並べたベクトル
のことで、この確率のベクトルが作る空間
が古典論の状態空間です。
例えば2次元の場合には不均一なコイン投げの取り得る確率分布が、6次元の場合には不均一なサイコロが取り得る確率分布がそれぞれの具体例になっています。
もし不均一な2つのサイコロがあったとして、コイン投げの結果に従ってどちらかを振る場合、出目の確率は先ほどの確率混合
で表現でき、これは状態空間の中で閉じています。
このように、古典論の確率ベクトルの状態空間も確かに凸集合の条件を満たしていることが分かります。
公理2.は、密度演算子から確率を取り出すときに、凸結合すなわち確率混合の構造が保存されるべしという条件になっています。
「ボルンの確率規則はどこから来るのか?」ではより詳しく解説します。
公理3.の意味
公理3.は通常は合成系の構成方法の公理として仮定されるものですが、本記事では代わりに部分系の公理を置いています。
理由としては、
- 量子論においてはエンタングルメントがあるため、本当に系の切り出しができるかどうか不安
- 見かけ上は部分系っぽくなくても、情報論的には系を切り出して局所性を論じることがある
などが挙げられます。
この公理は、そもそも物理学における系の定義が「世界から物理的な分析対象を切り出したもの」であることと綺麗に整合します。
その切り出しが可能な条件を述べたものが公理3.というわけです。
合成系がなぜテンソル積になるのかは「量子もつれと局所性」の記事で解説しています。
公理4.の意味
公理4.のユニタリー過程は、密度演算子 \(\rho\) がユニタリー演算子 \(U\)とそのエルミート共役によって
と時間発展することを指します。
なぜ時間発展がこうなるのか?に納得できるかは人それぞれですが、本サイトでは「なぜユニタリー時間発展を仮定するのか?」で理由を解説しています。
要点だけ紹介すると、量子状態を量子状態に矛盾なく移して、かつ可逆な時間発展を考えると導出されるということが長々と書いてあります。
つまり、公理4.は散逸がない状況では量子状態から量子状態への可逆な変化が起きることを要請しています。
公理が足りない?
量子論の公理を学んだことがあれば、本記事で紹介した公理に違和感を抱く人もいると思われます。
まず、本記事の公理にはよくある射影公理が入っていないです。
この点に関しては「射影仮説と波束の収縮」を読んでいただければ分かると思いますが、射影公理は実は仮定しなくても理論上は不都合がありません。
むしろミクロ系の測定は意図的に設計しないとこの公理を満たさないので、使い所が難しいです。
測定後状態を簡単に計算したい時の便利なショートカットルールくらいの存在なので、本記事のこだわりによって不採用としています。
おまけ:一般確率論から見た量子論の公理
量子系の基礎付けはさまざまな角度から試みられていますが、代表的なものにGPTがあります。
GPTの文脈では、そもそも量子論でいいの?という観点から量子論を包含するより広い枠組みの研究がなされています。
そこではそもそも公理1.のように最初からヒルベルト空間を仮定せずに、何かしらの凸集合という構造だけを仮定したりします。
この立場では、公理1.に対する「なぜ状態空間が密度演算子の集合と一致するのか?」「ほかの凸集合ではいけないのか?」という疑問も、量子論をより一般的な確率論から特徴付ける問題として議論されます。
ある程度わかっていることはあるようですが、量子論の再構成に関わる難しい問題です。
また、凸集合を持った2つの量子系の合成系の凸集合はどうなるのだろう?という点も非自明な問いです。
この答えは「一意的に決まらない」と分かっています。
状態を確率混合だけで相関させて作る凸集合を最小テンソル積といい、
逆に測定が最小限に貧弱で状態を最大限自由に選べる場合を最大テンソル積と言います。
合成系の凸集合はこの最大と最小の間のどれになることもあり得る、というのがGPTの結果です。
実際、量子系の場合はヒルベルト空間のテンソル積構造によって、最大でも最小でもない絶妙なところをついています。
合成系の状態空間に関する研究は、エンタングルメントや情報因果律などの概念と密接に関わっている興味深いテーマです。