はじめに
量子状態の時間発展には決定論的なユニタリー発展と非決定論的な射影仮説の2種類があるという説明を見たことがあるでしょうか?
古典力学においては決定論的な時間発展が主流であるため、量子論を学んだときに後者の非決定論的な時間発展が出てくることを奇妙に感じながらもそういうものであると受け入れている人が多いのではないでしょうか。
あるいはこの記事に辿り着くような方は射影仮説に対する不信感を拭えずに何か解決の糸口を探している最中かもしれません。
本記事はそのような標準的な教科書で射影仮説が仮定されることに満足できない方々に対する答えを提示するものとなっています。
射影公理への違和感
標準的な教科書における射影公理は、測定をした瞬間に測定値に対応する部分空間に状態が射影されるとものとして導入されます。
正確には、理想的な測定で結果 \(x\) が得られた場合に密度行列 \(\rho\) の変化が
のように射影演算子 \(P_x\) によって計算できることが射影仮説や射影公理と呼ばれています。[1]。
よくある解説では、射影公理は測定による知識の増加を表していると説明されていますが、これらの説明は以下の2点が不足しているように感じます。
まず第一に、なぜそのような公理を設ける必要があるのか?という点です。
「測定後状態とは何か?」で解説したように、古典も量子も同様に条件付き確率によって測定後状態が定式化できるのに対して、わざわざ追加の公理を設定すると理論が冗長になってしまいます。
第二に、よく知られている実験においても測定後状態が射影公理を満たさない例は多くあるという点です[2]。
例えば有名な2重スリット実験において、測定後の電子はスクリーンに吸われてスクリーン内に拡散するので、測定後状態は射影公理で期待されるような特定の位置に局在したものにはなりません。
また、代表的な物理量である運動量でさえ、測定相互作用で乱されて射影公理には従いません。
以上から、標準的な射影公理の解説には不満な点があります。
そこで本記事では射影公理を条件付き確率によって導出できるという(よく知られているのかは分からない)結果について解説します。
補足
ちなみに射影公理と似た用語として「波束の収縮」がありますが、正確には異なる概念を指しています。
波束の収縮は、波動関数が確率分布ではなく何かしらの物質の波として捉えられていた時代の混乱によって生まれた言葉です。
「波動関数で定められた確率に従って一つの測定値を得る」という普通の測定の話を、概念的に混乱していたことで「物質の波が測定によって測定値付近に収縮する」という謎現象だと思ってしまった、というのが現代的な説明になります。
量子論における理想的な測定
古典論では対象に影響を与えない測定相互作用を仮定することが多いですが、量子論ではこの仮定を慎重に取り扱う必要があります。
なぜなら量子論で \(X\) を測る相互作用は、一般に \(X\) と非可換な物理量を乱すためです。
そこで特殊なケースとして、量子論において最も対象を乱さない理想的な測定を定式化します。
以下では、この理想的な測定において射影公理が導出されることを見ていきます。
量子論における最大の非破壊性
測定において確率分布が乱されないという条件を非破壊と言います。
全物理量が測定で乱されないという理想を諦めて、非破壊の対象を \(X\) と可換な物理量に限るとします。
つまり、\(X\) と同時に確定できる情報は可能な限り乱さない、という条件を考えます。
この条件を少し丁寧に書くために、\(X\) と可換な物理量全体の集合を
と定義します。
測定器の初期状態を \(\sigma\) とします。この測定相互作用が、任意の\(A\in\mathcal{C}_X\) に対して非破壊(すなわち確率分布が不変)であることは
という条件式と同値です。ここで、\(\mathrm{Tr}_M\)は測定器系の部分トレースを表します。
\(A\)としてあらゆる射影演算子を選択して色々計算すると、測定相互作用\(U\)は
という形で展開できることが示せます。\(U_x\)はユニタリー演算子です。
ここで、\(P_x\)はスペクトル分解
に登場する射影演算子です。
測定器状態の識別可能性
次に、測定器から \(X\) の値を正確に読み出すための条件を考えます。
仮に対象系が確率1で \(X=x'\) となる状態、すなわち
を満たす状態\(\rho_{x'}\)にあるとします。
この時、先ほどの測定相互作用によって測定器系の状態は
へ移ります。\(\mathrm{Tr}_S\)は対象系の部分トレースです。
この設定において、各\(x\)に対応する状態\(\rho_{x}\)を確実に識別するためには、確率1で測定器の読み値が\(Y=x\)となる必要があります。
すなわち、測定器側に射影演算子 \(Q_y\) が存在して、各\(\sigma_x\)は
を満たす必要があります。
この式から、まず \(x=y\) の場合を考えます。\(A:=(I-Q_y)U_x\sqrt{\sigma}\) とおくと、\(Q_y\) が射影演算子であることから
となります。したがって \(A=0\) であり、
が得られます。同様に \(x\neq y\) の場合には、\(A:=Q_yU_x\sqrt{\sigma}\) とおくと、
より \(A=0\) です。つまり、
が得られます。以上をまとめると、
が成り立ちます。以上で得られた結果をまとめると、最大に非破壊かつ測定器状態が識別可能な測定では
の二つの条件式が満たされていることが分かりました。
この二つの式が得られれば射影公理はすぐに導かれます。
射影公理の導出
ここから、測定後の状態を実際に計算します。
「測定後状態とは何か?」によると、測定後状態は任意の確率変数についての条件付き確率によって定めることができるのでした。
そこで、測定後状態を定義するために、任意物理量 \(A\) の測定の確率を考えます。
射影演算子 \(E_a\) によってスペクトル分解
ができるとします。
ここでの \(A\) は、完全に任意であり、\(X\) と可換とは限りません。
目標は、測定器の\(Y\) と、任意物理量 \(A\) の同時確率
を求めることです。これが分かれば、あとは古典確率と同じように
を考えて、これを定める量子状態を決定できるはずです。
まず、系の初期状態を \(\rho\)、測定器の初期状態を \(\sigma\) とします。
前述の通り、\(X\) についての最大非破壊性を満たす測定相互作用は、
を満たします。
したがって、測定相互作用後の合成系の状態は
とそのエルミート共役を用いると、
と書けます。
この状態において、測定器の\(Y\) と、任意物理量 \(A\) の同時確率は
で計算できます。
先ほどの\(\Omega\) の式を代入すると、
前述の通り、測定器状態が識別可能ならば
という条件を満たします。(二つ目の式は一つ目の式のエルミート共役です。)
これを用いると、
となります。
したがって、同時確率は
となります。
\(Y\)の周辺確率は
と計算できるため、条件付き確率は
という式に変形できます。
最右辺を見ると、これは \(Y=y\)で条件付けられた試行における ボルンの確率規則の形になっています。
そしてこの式における量子状態
はいわゆる射影公理を適用した場合の測定後状態になっています!
以上で射影公理の導出が完了です。
重要だったのは、非破壊な測定相互作用によって生じる測定器状態が識別可能であることと、条件付けられた試行に対する量子状態を考えることです。
この条件を満たすことで射影公理は定理となります。
逆にこれらの条件が満たされないあらゆる測定においては射影公理は成立しません。
最後に
以上の考察から、理想的な測定において自然に導出される射影公理を、あえて公理として採用することはあまり適切ではないと感じられるのではないでしょうか。
反論として、「測定装置の測定後状態は計算できないじゃないか!」というものがありますが、これはこの測定モデルの適用外というだけで、何も問題はありません。
量子状態とは「さまざまな物理量の確率分布を与えるソース」であり、測定後状態とはある物理量の測定値によって条件付けられた試行における量子状態です。
このことを念頭におけば、そもそも射影公理なしに条件付き確率への乗り換えとして測定後状態を定義するのが確率論的に自然であると感じられるのではないでしょうか。
参考文献
- Gerhart Lüders, “Über die Zustandsänderung durch den Meßprozeß,” Annalen der Physik 443, 322–328 (1950).
- E. B. Davies and J. T. Lewis, “An Operational Approach to Quantum Probability,” Communications in Mathematical Physics 17, 239–260 (1970).