「量子力学の物理量は演算子で表される」という言葉を聞いたことがないでしょうか?
これは標準的な量子力学の教科書によくある表現ですが、この定義(?)をなるほどと思って納得できている人は存在するのでしょうか。
おそらくほとんどの人が最初は何を言っているか分からないと感じ、その後も分からないまま抽象的に受け入れているというのが実情に近いのではないかと思います。
しかし、できることなら心の底から「量子論の物理量とは何か?」を理解したいはずです。
実は測定の観点から考察することで物理量というものを量子論の枠組みで綺麗に特徴付けられることが知られています。
本記事では、そんな量子論における物理量の定義に対する不満を解消することを目的としています。
「ボルンの確率規則はどこから来るのか?」の続きとして解説するので、POVM測定という言葉を聞いたことがないという方は先にそちらを参照ください。
測定確率の計算方法
量子状態とは密度演算子で表される統計的な構造で、その集合は凸集合になっていました。
同じく測定値の確率分布を並べたベクトルも、その集合は凸集合をなしていました。
そして量子状態 \(\rho\) における測定値の確率分布は、この凸集合の間の構造を保つアフィン写像によって
によって決定されるというのが本サイトでの量子論の公理です。
このアフィン写像はどのような測定をしたかによって一つ定まるもので、具体的な計算式としてPOVMを用いて
とヒルベルトシュミット内積で確率が計算できる、というのが「ボルンの確率規則はどこから来るのか?」で解説した内容です。
そしてPOVMの要素が直交射影演算子になるとき、この測定をPVM測定といい、計算規則をボルンの確率規則といいます。
定義:PVM測定
POVM \(\{P_a\}_a\) が直交射影演算子の条件
を満たすとき、このPOVMをPVMと呼び、PVMによって確率を計算する測定をPVM測定と呼ぶ。
ではなぜこの測定には特別に名前が付いているのでしょうか?
名前を付けるだけの良い性質があるのでしょうか?
確率変数に対するシャープな測定
最も単純な場合として、\(0,1\)の2値をとる確率変数 \(X\) を考えます。
この確率変数の分布を \(P(x)\) とし、 \(X\) を測定したときの測定値の確率変数を \(Y\) とします。
何事もなくそのまま \(X\) の値を測定できれば、\(X=x\) の条件下での \(Y\) の条件付き確率は
というように\(x\neq y\)となる確率は0になります。
逆に測定の過程でノイズによる値の反転が起きることがあり、その場合は
となってしまい、\(x\neq y\) となる可能性が出てきてしまいます。
前者のように元の確率変数を \(Y\) が \(X\) と常に一致するなら正確に誤差なく測定できていると言えるでしょう。
しかし \(X\) 自体がそもそも確率的にばらつくため、正確に誤差なく測定できているとは言っても測定値 \(Y\) も確率的にばらつくことは避けられず、
という確率分布に従ってばらつきます。
ところで、量子論における物理量は測定前からその値が定まっているのではなく、測定によってその場で測定値が生成されるものであることがコッヘン=シュペッカーの定理によって理論的に示されています。
したがって、ここまでの議論の前提である正しい値 \(X\) というものが量子論においてはそもそも存在せず、 \(P(x)\) も定義できません。
そうすると系が持つ真の値というものがないことになるため、測定値 \(Y\) が系の性質を反映しているという保証がなくなってしまいます。
ではどうすれば真の値がない前提で測定値が系の性質を反映したものであると信頼できるのでしょうか?
一般に我々人間はお互いの見たものを比較して共通のものを経験しているという事実確認の積み重ねによって、他者とも同じ世界を共有していると実感できています。
例えば一つの測定器の目盛りを複数人で読む場合、読み取った値が全員等しければ読み間違いがないだろうと判断できます。
このように複数の測定者間で共通認識を得られているならば、仮に真の値というものがなくても、その共通の値を正しい値と考えるのは自然な考えに思えます。
今、同じ \(X\) を異なる2人の測定者が同時に同じように測定したときの測定値がそれぞれ \(Y,Y'\) であるとします。
このとき \(Y,Y'\) の古典的な同時確率分布は
となります。
ここで重要なのは、測定値が一致するかどうかは元の分布 \(P(x)\) を知らなくても左辺の同時確率分布 \(Q(y,y')\) で \(y\neq y'\) となる確率が0であるかどうかを見るだけで判定ができるという事実です。
それ故に量子論においてもこの方法で測定値の信頼性を判定することが可能となり、「誰にとっても同じ測定値が得られるなら、その値を信頼する」という考え方が可能となります。
この同時測定での値が一致するという考え方は、量子測定における間主観性として小澤正直によって論じられています[1]。本記事では、この性質を手がかりにシャープな測定を考えます。
量子論におけるシャープな測定
それでは量子論の場合にもシャープな測定を定義していきましょう。
量子論の場合には数学的な構造の違いから、そもそも元の分布 \(P(x)\) というものがありません。
さらに値の反転も\(q(y|x)\)という単純な条件付き確率で表せるとは限らず、より豊かなノイズの構造があり得ます。
しかし先ほどの議論から、元の値や反転ノイズを直接考えなくても、同時確率 \(Q(y,y')\) において測定値が一致するかどうかを調べれば、信頼性のある測定値の概念をシャープな測定として扱えることが分かりました。
量子論でもこのアプローチなら問題なく議論を進めることができます。
まず量子状態を\(\rho\)とし、先ほどと同様に、 \(0,1\) の2値測定を考えます。
「ボルンの確率規則はどこから来るのか?」の記事によると、この場合の測定確率 \(Q(y)\) は何らかのPOVM \(\{E,I-E\}\)と \(\rho\) のヒルベルトシュミット内積で
と計算できます。
この時、同時確率 \(Q(y,y')\) の不一致率が0になることが示せれば良いのですが、\(Q(y)\) の情報だけから \(Q(y,y')\) を一意的に決定はできません。
そこで、同時確率になり得る候補 \(Q'(y,y')\) を網羅的に考えて、全ての候補 \(Q'(y,y')\) において必ず \(y\neq y'\) の確率が0になるという強い形の主張を示すことを考えます。
こうすると、どの同時確率の候補を採っても測定値が食い違わないため、同時測定のモデルの取り方に依らずシャープな測定であると言えます。
ここで、以下の表を満たすPOVM \(\{F_{yy'}\}_{y,y'=0,1}\) を導入します。
| \(Y'=0\) | \(Y'=1\) | 周辺 | |
|---|---|---|---|
| \(Y=0\) | \(F_{00}\) | \(F_{01}\) | \(E\) |
| \(Y=1\) | \(F_{10}\) | \(F_{11}\) | \(I-E\) |
| 周辺 | \(E\) | \(I-E\) | \(I\) |
この表を満たせば、周辺確率が元の2値測定となっているため、 \(\{F_{yy'}\}_{y,y'=0,1}\) が同時測定のPOVMであることが分かります。
もしこの表を満たすPOVMの非対角項が常に \(F_{01}=F_{10}=0\) であれば、任意の量子状態において \(Q(0,1)=Q(1,0)=0\) となって2人の測定値が常に一致すると言えます。
そしてこの条件が全ての同時POVMの候補について成り立つとき、このPOVM \(\{E,I-E\}\) をシャープな測定と言います。
これを数学的に整理すると以下の定義になります。
定義:シャープな測定(2値測定の場合)
2値POVM \(\{E,I-E\}\) を考える。任意の演算子 \(F\) について、
となる時、この2値測定をシャープな測定と言う。
ここで重要なのは、シャープな測定ではこれが全ての同時確率の候補について成り立つという点です。
具体例として
は同時確率の候補になっています。
したがってシャープな測定では
が成り立ち、これは
を意味します。
つまり \(E\) は射影演算子であり、シャープな測定はPVM測定になっていることが分かります。
多値の場合のシャープな測定
ここまでは2値の測定におけるシャープな測定の定義について解説してきましたが、一般の測定ではどうなるでしょうか?
実は測定値の集合が2値でない場合であってもそれを2値の測定に還元できます。
なぜならそれぞれの測定値\(y\)ごとに\(Y=y\)が真か偽かを測定する2値測定を行うと考えることで、一般の多値の測定を再解釈できるからです。
このとき、各 \(y\) に対応する2値測定がシャープであれば、それぞれの測定値に対応する成分が射影演算子になります。
さらにPOVMの条件によって、どれか一つの測定値が必ず得られるという構造も保たれています。
したがって、2値測定以外にも一般の測定においてシャープな測定は以下のように定義できます。
定義:シャープな測定
測定値の集合を \(\Omega\) とするPOVM \(\{E_y\}_{y\in\Omega}\) を考える。
各測定値 \(y\) に対して、2値測定
がシャープな測定であるとき、このPOVM測定をシャープな測定と呼ぶ。
この定義から、各 \(E_y\) は射影演算子になっています。
さらにPOVMの規格化条件
と合わせると、異なる測定値に対応する射影演算子は互いに直交し、
が成り立ちます。
そしてこのシャープな測定は、
という射影演算子の条件を満たすことがわかるため、この場合もPVM測定になっていることが分かります。
この特徴付けに対応する近年の研究として、POVMのすべての粗視化が間主観的であることと、そのPOVMがPVMであることの同値性が一般確率論の枠組みで示されています[2]。
物理量をどう定義するべきか?
繰り返しになりますが、シャープな測定によって得られた測定値は、測定者間で常に一致します。
この理想的な性質があるからこそ、この値がある意味で信頼性のあるものとみなせるわけです。
そこで量子論では、シャープな測定によって得られる測定値を物理量の正しい測定値と考えます。
定義:量子論における物理量
量子論における物理量の測定とはシャープな測定のことであり、その測定値を物理量の値という。
定義:物理量の演算子
PVM \(\{ P_a\}\) で計算できるシャープな測定における期待値は
と計算され、この式においてヒルベルトシュミット内積で定義される期待値の演算子 \(A:=\sum_a aP_a\) を物理量の演算子と呼ぶ。
この定義から分かるように、よく言われる物理量の演算子とは、物理量の期待値を計算する演算子のことを指しています。
そしてよくある説明の「量子論において物理量は演算子で表される」というのはかなり説明不足であるとも感じたのではないでしょうか?
量子論の物理量とは、他者と測定結果の共通認識が持てるというシャープな測定によって定義される概念であり、物理量の演算子というのは計算に便利な数学的な道具に過ぎないと考えるべきだと思います。
補足
この記事では何度か「測定値の信頼性」という言い方をしましたが、これは標準的な表現ではありません。
実はこの記事での「信頼性」を表す言葉は通常は間主観性と呼ばれています。
本記事で扱うと長くなりすぎるため、物理量の値の間主観性については、また別の記事で解説予定です。
参考文献
- Masanao Ozawa, “Intersubjectivity and value reproducibility of outcomes of quantum measurements,” Scientific Reports 15, 36112 (2025).
- Shun Umekawa, Koki Ono, and Hayato Arai, “Intersubjectivity as a principle determining physical observables and non-classicality,” arXiv:2603.01575 (2026).